窮鼠りんごを咬む

追及の輪が核心に迫り、已むを得ずの事なのか、都合の良い判決が出た事が何らかの変化を生み出したからなのか、何ものかから目を逸らす為なのか、本意が何処に有るのかは推測の域を出ないが、何故ここに来て、急変とも看做されるような 日毎に無駄な文節、単語の変更が必要な感情的ともとれる拙速な更新が始まったのでしょうか。
如何に十数年もの間に 何もして来なかったのかと言うと 語弊も出るだろうが、更新内容の印象からは、そのように感じられてならない。
また、東村山に関心を持って半年しか経たないが、草の根派とされる方方の中に 判決文などの資料を精査しようと言う動きが無いように 思えるのは、まだまだ 自分の調べ方が 足りないからなのでしょうか。既に終わっている事なのでしょうか。 さらには、捜査に非協力的であったと言う論説についても興味があるところです。
個人的能力の不足から分析や検証をすることは適わない為、直感的に大まかな印象として全体像を把握することになってしまう。
それを補う為の作業が、時系列的な整理や目次の作成として成り立っている。したがって、人を見下したり誹謗中傷する感情的な語彙には、全く関心が無い。
多くの人に伝えようと言う意思の無い語彙の羅列であるなら不要であり、資料原本を公開していただく事の方が より建設的である。
何故、それが出来ないのかは 推測する事しか出来ないが、真に追及をする気がないか、事をより誇大に見せかけ 事の本質を曖昧にしようとしているのではないのか。
真実を追究する、巨悪を追及すると豪語されているのですから、どの様な形で 資料、論説を公開する事が 言に適っているのかを 再考する時期に来ているのではないのかと考えるものであります。

ところで、自己逃避、滅私依存ですね。 だから、自己陶酔と相性が 良いのかもしれません。